帝王ゲルギエフと、変態トリフォノフ(3)
トリフォノフが終わって20分の休憩をはさみ、
チャイコフスキーの大傑作、悲愴。
妖精トリフォノフは去り、ここは完全な森。
大国ロシアの広大な森。
その生命の、残酷で美しく、あたたかく懐かしく、
どうにもならない悲しい姿。
ゲルギエフの譜面台は取り払われ、帝王が両手を
広げて完全な姿を現した、それは最終形態。
衝撃です。
ピアノなんて無力。
私はもっと無力。
完全なるオーケストラが、圧倒的な帝王の指揮の
もとで、森という生命を完全に擬態している。
森というのは私が勝手に描いたビジョンであって、
おそらくこれはあらゆる生命の擬態、人の生命で
あり、人生でもある。
太古の昔、人々が木ぎれや貝殻や動物の骨や皮を
楽器にしてこの世に音楽を誕生させて以降、
チャイコフスキーがこの悲愴を書くまでの、
一連の音楽史もぐらっとからだにのしかかってくる
感覚でした。
チャイコフスキーが人生をテーマとしてこの悲愴を
完成させ、自ら指揮をして初演したわずか9日後に
突然死亡したことから、チャイコフスキーそのもの
を象徴すると言われるこの交響曲6番。
ゲルギエフは重大な節目でこの曲を指揮してきた
というけれど、その都度、死の淵に立っているのだ
と思いました。
指揮をするたびに死を確認し、おそらくその蓄積で
彼自身が生命の完全体に到達してしまったような、
抗いようのない求心力を見ました。
4楽章。チャイコフスキーが人生の最後にみた景色と
生命体の完全なかたちとして最後には消滅する、
どうしようもない死が私たちの目の前にもあり、
涙と鼻水が落ち、喉が詰まり、脳が抵抗してから諦め、
隣に座った年配の叔父様も目を拭って、あちこちから
鼻をすする音がきこえ、ステージを正視できないまま、
最後の長い長い、長く保たれた沈黙が重く、確実に、
終わりを告げました。
アンコールは無し。
名古屋の夜は美しく、人々は生きて歩いていて、
救われました。