蜜蜂と遠雷からの
『蜜蜂と遠雷』を読み終えてから数日経ても、目にした直後の印象が薄れず頭のまん中に居座っているシーンがあります。
主人公の1人、コンクール参加者の女の子が、本番のステージでピアノを前に座ったあと、演奏前にピアノの上の一点をみつめるという場面です。
もう1人の主人公、同じコンクール参加者の明石という男性は、亜夜というその子の才能にずっと憧れを抱いていました。
“亜夜はストンと椅子に腰掛け、ピアノの上の一点を見つめた。
彼女はいつもあそこを見つめていた。
何が見えるのだろう。
今、何を見ているのだろう。
明石は不意に熱く苦いものが込み上げてくるのを感じた。
俺もあそこに行きたかった。彼女が見ているものを見たかった。
いや、ほんの一瞬かもしれないが、見たと思う——
続けたい。弾き続けたい。”
この場面の彼女が見ている何かが、ずっと頭の中にあります。それが何なのかということではなく、この何かは確かに、ある、というか、いる、ということなのですが、これは、音楽を愛するかなりの人に共感していただけることなのではないかと想像していますが、どうなのでしょうか。
音楽の元素のようなもの。
音楽の神様が、具現化したようなもの。
音楽という、母なる概念のようなもの。
たとえば私は泳ぐのは全然得意ではなく、25mプールを一回往復して息切れするようなものですが、それでもプールの中でたっぷりと水を掻いていると、浮力にくるまれた魚のような気持ちになり、人も昔は魚だったっけと、人類のルーツを感じますし、美しい海に入れば、遥か彼方とつながっている感覚から、母なる地球がどうして生まれたんだろうと、何か途方も無いことを思います。
そういう感覚がどこかにあるから、人は水で泳ぎ、海を見ることに惹かれるのかなと思います。
おそらく音楽も同様にそういう途方もない大きな概念とつながっており、コンクールという際立ったステージのピアノの上には、限りなくその姿に近づく道があるように思えました。
その存在を一度でも感じることができたら、きっと音楽は生涯の友となり、時には心の拠り所となって人生を支えてくれたりもするように思えます。
日々音楽を教えさせていただく立場にいて、そのために泳ぎ方を教え、海のように広いホールでの発表会にしつこく誘ってしまうことだなあと、我にかえった次第でした。
(教室の発表会は、任意参加です、安心してください)
そんな週末、泳ぎ方を少しずつ教えてきた小さい生徒さんたちが、この上なく美しい東京のホールで行われるバッハコンクール全国大会に参加し、私は一緒に行けませんでしたが、そのうちお二人が金賞と銀賞をいただいてこられました。もちろん私の力でなくお母様の偉大なサポート、私にいつも遥か彼方の美しさと厳しさを教えてくださる恩師の教えがあってのことなのですが、演奏の動画を見せていただく限り、二人ともふだんの練習そのままではなく、それ以上に美しい、たくましい演奏で、感動的でした。
壮大な海を、自力で泳いで、美しいものをみつけてきて、それを、
ほら先生
と見せてくれたような、えも言われぬ幸せな気持ちです。ふたりには、見えたのだろうか。
本当におめでとうございます!