映画『グランドピアノ』と本番力の仮説
本番力。
それはピアノを弾く人々の多くが欲してやまない
力。
家でどんなに練習しても、リハーサルではうまく
いっても、ステージの上で、聴いてくださる方の
前で、その人の力が発揮できなければ、まったく
意味が無い、ということは絶対ありませんが、
とにかく、楽しくありません。
本番で大失敗した場合、その後の精神がたどる
パターンとして
「本番が恐怖になる=二度と出ないと決める」
というのが最終段階ですが、そんな映画を観る
機会がありました。
映画『グランドピアノ 狙われた黒鍵』
『ロード・オブ・ザ・リング』などのイライジャ・
ウッドを主演に迎え、コンサートの舞台で孤軍奮闘
する天才ピアニストの姿を描くサスペンスドラマ。
約5年ぶりに戻ってきたステージ恐怖症のピアニスト
が、謎の狙撃手に難曲をミスなしで完奏するよう
脅迫されながらも必死で相手に食らいつく姿を活写
する。声だけで主人公を操る男を、『推理作家ポー
最期の5日間』などのジョン・キューザックが好演。
観客が注視する中、水面下で展開する緊迫感あふれる
駆け引きに熱狂する。
イライジャ・ウッド演じる主人公トムは、
ラフマニノフの再来と呼ばれる天才ピアニスト
なのですが、5年前、自分の恩師が作曲した
演奏不可能な難曲 ”ラ・シンケッテ” を舞台で
演奏した際に大失敗したことがトラウマとなり
舞台恐怖症に陥ります。
それが有名女優との結婚を機に、5年ぶりに
復帰するというコンサートが開催され、その
一日が映画の舞台です。
トムは復帰当日でも性格は復帰しておらず、
本番直前に「絶対失敗する」と指揮者にぼやき、
「こう思おう。たかが音楽だ」とたしなめられ
ます。
不安しかない神経質なステージ。その目の前の
楽譜に赤い文字で書かれたのが
”一音でもまちがえたら、お前を殺す”
トムは必死で弾きますが、次第に自分だけでなく
結婚したばかりの妻も敵の標的にされてしまい
ます。妻を守りたい一心で、演奏しながら策を
仕掛けるトム。
もう必死しかないですが、妻への思いと敵への
怒りがピークになったそのとき、トムの中から
恐怖が消えるわけです。
プログラムの予定には無かったトラウマの曲、
”ラ・シンケッテ”を弾ききり、しかもその演奏で
敵の策略に打ち勝ちます。
*イラストと本文は関係ありません
”一音でもまちがえたら、お前を殺す”
しびれます。
映画のキーワードですが、この言葉を自分に
向けて言うことはありますよね。私もあります。
そのくらいの力が本番に求められていて、
それは滑稽なくらいです。
映画では、実際に誰か敵なる者が、トムの命を
狙うわけですが、この映画の監督自身が音楽家
なんだそうでした。劇中のピアノ協奏曲も、
難曲“ラ・シンケッテ”も監督による作曲とのこと。
きっと監督は、自身の音楽生活の中で、何度も
この言葉を自分に問うたのではと思わせられます。
この言葉で映画をつくりたかっただけなのかと
思うくらい、コメディーばりに滑稽な演出も多く
それが妙に面白かったです。
*イラストと本文は関係ありません
さて恐怖はそれほど大きく、でもその恐怖が何か
別の大きな力にすりかわったとき、恐怖は克服
されうる、ということが言えるかもしれません。
思い出したことには、私の長男が幼少の頃、
中耳炎をこじらせて耳鼻科に通っていたことが
ありました。
いつもは私が連れて行くのに、私は数日頭痛が
ひどく寝込んでいて、夫が連れていったのです。
子供は診察では親のヒザの上に乗るのですが、
いつもと違う感触だったのか、長男がむずがり
動いた拍子に鼓膜が傷ついたか何かでとにかく
良くない状況になり、最悪の場合は、手術の
可能性もあると。
こんなに小さいのに、頭の横を切って手術する
可能性があると。
しかも、私が付き添いできなかったせいで。
頭痛で寝ている私はその状況を聞きながら
泣きそうになり、聞きおわった瞬間に頭痛が
消えました。
明らかに大きな心配にすりかわったせいです。
(その後、長男は幸運にも薬ですぐに回復し、
私の頭痛もすっかり良くなりました)
似たことが、本番での恐怖にも言えるような
気がしています。
失敗するかもしれないという恐怖は、100%
自分の中から生まれるものです。
失敗する自分に恐怖するわけです。
でも、自分という存在を限りなく忘れてしまう
ことができれば、打ち勝つことができるかも
しれません。
ピアノを弾く多くの場合には、救いがあると
思います。100%自分の表現ではありえない
からです。
ピアノ曲の多くは既に作曲者がいて、おおむね
偉大すぎる素晴らしい作曲家ばかりです。
彼らとの対話が成り立ち、力をくれますし、
ときどき憑依してくださることもあります。
それから、ピアノという生きた楽器が助けて
くれます。ピアノにも作った人の念があり、
整備した調律師さんの念があり、楽器自身も
弾き手の思いにこたえようとしてくれる子が
います。
出てくる音との対話が助けになってくれます。
ステージでもひとりではないのです。
とにかく自分という存在をできるだけ完全に
忘れ、曲という着ぐるみにくるまれ、ピアノ
というフィルターを通すことに限りなく集中
できれば、きっと自分の恐怖は小さくなって
いくのではないか、というのが私の仮説です。
これから時間をかけて検証していきます。
*イラストは当教室デザイン部(夫)によるものです