教えたい衝動
市の小学校では、5年生になると10月に連合音楽会があります。
夏休み明けから全体の練習が始まるので、ピアノを習っている5年生にとっては、合唱曲と器楽合奏曲のピアノを担当するかどうかと、やきもきするのが夏休み前のことでした。
夏休みが明けてからは、うちの6年生の息子がなぜかやきもきしておりました。
「合奏が気になるんだよね」
そうね、去年の曲とぜんぜん違うもんね。
「いろんな楽器があってさあ…」
うん。去年自分達もやったし知ってるよね。
「その、指揮がしてみたい…」
指揮は、毎年のように先生がすると思うぞ。
「その楽器の人たちを教えてみたい…」
お、おう。
「先生に頼んでみようかな」
えっ。
「5年の担任の先生に、練習の手伝いをしたいと言ってみた」
まじか。
「とりあえず朝練習のとき、手伝ってもいいことになった」
まじか。よかったね。
寛大な先生のご判断にありがたく思う一方、教えたい、という欲求にはむらむらと沸く衝動があるのかもしれない、と考えました。
それで私自身も同じ6年生のころ同じ衝動にかられたことを思い出しました。
近所の家に5歳ほど年下の女の子が住んでいて、全く交流がなく一度も話したこともなかったのですが、ある日、それまでにはしなかったピアノの音が、そのお家からきこえてきたのです。
どうやら習いはじめたらしいと。
もう気になって気になって仕方がありませんでした。当時知っている数少ない曲の中でこのゆっくりだけど美しいクレメンティのソナチネの2楽章、音がすごく少ないからもしかしてあの子も弾けるかもしれない、すごくきれいだから、これを弾けたらあの子すごく喜ぶんじゃないかな、どんなふうに笑ってくれるのかな、習いはじめだから、ソナチネは知らないだろうし、教えたいな、どうやって教えるのがいいかな、ソラシドレに手を置くのをやったことあるかな、というかいきなりお家に行って、教えさせてください!と言ってもだめだろうな…などと、勝手に限りなく妄想を膨らませていました。
結局、行動する勇気がなくそれきりになってしまいましたが、今もそのソナチネ2楽章を見聞きすると、思い出す感情です。
その後、自分でもすごく恥ずかしくなり、私は下に兄弟がいないのでおねえさんぶって誰かの面倒を見たかったのかもしれないし、自分が少しピアノが弾けるから、誰かにすごいなと思ってもらいたかっただけかもしれない、過剰な自意識として黒っぽい歴史の引き出しに記憶をしまっていました。
でも今回の一連の息子の様子を見て思うのは、好きなことを伝えたいという欲求、伝えたらもしかして喜んでもらえるかもしれない、それを試したい、という欲求が、教えたい衝動としてあるのかもしれないということでした。
ソナチネ2楽章で思い出すのは、まだ見ぬその子の笑顔です。この曲の存在を伝えたら、弾きやすさを伝えたら、美しさを伝えたら、私が知っていてその子がそれまで知らなかったことを伝えたら、きっと喜んで笑ってくれるだろうな、と、見たことのない想像上の笑顔です。(妄想の記憶は怖い凄いものです…)
巡りめぐって教える仕事をさせていただいている今、そのときのソナチネ2楽章の選曲はまったくありえない、絶え間ないポジション移動と付点や伴奏のコントロールが必要な難しい曲でダメダメなのですが、そのときの衝動は今も全く変わっていないと気がついたことでした。
人は何でも好きなもののことをよく知りたく、知ったら誰かと共感したい生き物なのかなと思います。そんな衝動で仕事ができるなんて本当に有り難いことです。
その子の笑顔と、今一緒にいることができる生徒さんたちのまだ見ぬ笑顔を想像して、1月のおひきぞめ会の選曲に頭を巡らせてる今日この頃です。
これ弾こうよ!と紹介したその曲に、きっと目をキラキラさせてくれるかもしれない、期待に満ちたこの時間が大好きです。
実際のところは、良い反応ばかりでもなくちょっと(ぎょっと)顔がこわばる生徒さんがいることもありますが…
安心してください、きっと笑顔にさせてみせますよ!